森町にあった大盛鉱山跡を探したが、鳥崎林道沿いに遺構らしき物は見られなかったとHPにて報告しました。
その後、黒ウサギ掲示板や当ブログで情報を頂いたり、自分で調べてみた結果、何となくではありますが、大盛鉱山の場所が分かりかけてきた。
大盛鉱山の歴史についての詳細は、ネット検索ではよく分かりませんでしたが、唯一『遊ぶべ!道南探検隊さん』に概要が書かれています。
私が調べたところでは、鉱山労働者のために『鉱山慰安婦』がいたようで『性的奴隷』などという言葉も目に入った。
また、朝鮮からの強制連行労働者も200名ほど含まれていたと書かれていますから、暗い一面もあったのでしょう。
鉱山の操業期間は1934〜42(昭和9〜17)年なので、当時の世では、ある意味当たり前かもしれませんが・・・
さて、最盛期の人口は、2000人超と言われた大盛鉱山ですが、これだけの人が住めば、学校、商店、診療所、郵便局、そして鉱山関連の施設があったはずです。
鉱山の精錬所(コンクリート製)や坑口等の施設は、現在でも残っていると思われるが、住居等は難しいと思います。
私が幼き日、八雲町にあった鉛川鉱山の往時を知っていますが、大盛鉱山より近年まで操業していたにも関わらず、現在、住居跡など見る事が出来ません。
往時は、日用雑貨・衣料品などを売っているお店もあったし、無料の温泉(茶色の湯だった)もあって鉛川で泳いだ後によく入ったものです。
試に当時の航空写真を見てみましょう。
1969年の鉛川鉱山の写真がこれ。
鉛川鉱山は、昭和43年(1968年)に閉山してますから、閉山一年後の写真という事になります。
そしてこれが1976年です。
閉山から10年も経っていないにも関わらず、殆んどの木造施設が見えなくなってます。
閉山後の鉛川鉱山は、あっという間に閑散とした場所に変わり果ててしまったという私の記憶もあります。
それから、上ノ国町にあった中外鉱山は、昭和61年の閉山(休山)と、近年に閉山となっているが、この鉱山も当時から林道ツーリングへ出かけた際に何度か見ていました。
人口約500人の中外鉱山でも昭和51年(1976年)は、こんな感じ。
現在は、これです。
コンクリート製の焙焼炉等は、現在も残っていますが、木造建築物は殆ど皆無になってしまいました。(小学校も数年前撤去)
人口500人の中外鉱山でも、これだけの規模だったわけですから、人口2000人の大盛鉱山に至っては、かなりの規模だった事が想像できます。
それでは、大森鉱山の往時の航空写真を見てみましょう。
昭和19年(1944年)がこれです。
なにやら構造物が見られます。
そして現在、こちらはグーグルアースの画像で、解像度の関係で良く分かりませんが
七曲川上流にあった、坑口辺りの遺構らしき物は確認できます。
とまあ、現在の調査状況は、こんな感じ。
七曲沢奥地等、見学が難しい場所は別として、左二股川入口のゲートから先を見ていなかったのが、前回の探訪で残念なところでした。
もしあれば、ここなら簡単に見られたかも知れませんから。
(もしかしたら30年前の林道メモに書いていたコンクリート製の建築物はここの事かも?)
どちらにせよ、来年のお楽しみが一つ増えました。