2009年02月03日

スッポンカッポン

今日は函館以外の方には分からないローカルな話題です。

函館市を流れる亀田川、その五稜郭近くにある、白鳥橋と五稜郭橋の間に『スッポンカッポン』というヘンテコリンな名前の場所がありました。昭和30年代以前を生きた方なら知っているはずで、現在、『スッポンカッポン』を見た事のある人は初老?以上の方でしょう。

09231.jpg

当時、亀田川はこの付近で大きく蛇行していたそうで、その蛇行した中心部に堰(せき)が設けられており、ここから防火用の水道を市内に引いていたそうです。

私も『スッポンカッポン』を見た事のない人間です。

それでも興味津々で、その名前の由来を知りたかったんです。十数年前に近所の古老に云われを聞いた際、堰(せき)の開閉時にスッポンカッポンと音がするので名付けられたと知りました。

ところが最近、箱館戦争関係の書籍を読んでいたら、他の説が出てきました。この堰を建設する工事は大正初期に始まって、川の流れがせき止められて深くなり水死者が多かったそうです。そのため、水死者が浮かんでくる様子を表現して『スッポンカッポン』と呼んでいたという説です。

ちょっと怖い云われなので、どちらかと言うと前者の説の方が良いかも知れません。

今は無い『スッポンカッポン』、これからも名前だけは残しておきたいものです。




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posted by 黒ウサギ at 17:17| ☀| Comment(26) | TrackBack(0) | 懐かしい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは。
すっかり冬に逆戻りですね。

スッポンカッポン…初めて聞きました。
一見ユニークな表現ですが、深い意味をもったものなのでしょうね。
Posted by ヒューマ at 2009年02月04日 00:22
私も初めて聞きました。
前者の説なら「てきとーだな〜」って笑えますが、後者の説が本当だとすると…「そんな名前つけるな!」って感じですね。
でも知らないだけで、そうゆう場所って沢山あるんでしょうね。きっと…
Posted by ショウセイ at 2009年02月04日 02:41
スッポンカッポン ですか

確か 道新発行の1980年代の 
丁度 厚さが5センチ位の函館史に
載っていた 記憶が・・・・
ウロ覚えですが、人が落ちた時の 
音が スッポンカッポン と 書いて気が・・・


Posted by yu at 2009年02月04日 05:02
『スッポンカッポン』本当に変わった地名ですねェ。

黒ウサギさん、『郷土史家』みたいです。

実は、わたしも、市内の古墳に興味があった事がありまして、もうウン十年も前なんですけど、“垂水”と“朝霧”の間にある大きな古墳について調べた事があります。

この古墳、前方後円墳なんですけど“葺石古墳”といって、古墳全体が握りこぶし大の石で覆われています。わたしが中学生の頃は、崩れた状態でそんな石が葺かれた古墳だとは想像も付かないような状態でしたが、後年、修復・整備されて、今は昔の姿に近い形に整備されています。

この古墳、『五色塚』って呼ばれているのですけど、なんで『五色塚』なのかって思った訳です。
で、一説によれば、昔、この辺りに“五色人”という人達が住んで居たと言う説(かなりオカルトっぽくて、当時のわたしの興味を引きました^^;)
があって、調べ始めたのですけど、色々と当っている内に、役所の広報課で、
「それなら、津名郡五色町に郷土史家の先生がいらっしゃるので、お伺いしてみれば?」
と言われ、今度は五色町に電話して聞いてみると、親切に、その先生のお宅の電話番号まで教えて下さいました。
で、恐る恐る電話してみると、その郷土史家の先生は、非常に親切に教えて下さいました。

先生によれば、『五色塚』の名の由来には諸説あって、確定していないとの事でした。で、大きくは二つの説があって、

@『五色塚』の葺き石は、淡路の『五色浜』の石を運んで葺いたから説

A『五色塚』の形が『こしき』(昔の、ご飯をたく器具)をひっくり返した形ににているため、『こしき塚』がなまって『五色塚』になった説

と言う事で、『五色人』説は出て来ませんでした^^;

でも、わたしが『五色人』説にひっかかりを感じたのは、実は、世界中で、東西南北と中央を“色”で表していたからです。その色は国によって若干異なるのですけど、概ね黒・白・赤・青が多いです(代表的なのは、日本・中国の北【玄武】黒、南【朱雀】赤、東【青龍】青、西【白虎】白)なんですけど、あと中央にも色を充てたりしています。これ、本当に驚いたのですけど、世界中に同じような“方位と色そして神様”が当てられている文化が多いです。文明が隔絶しているはずのメソ・アメリカにも同じような考えがあります。

「う〜ん。ここには何か有る!」

って、思ったんですけどね。
Posted by 阿頼王 at 2009年02月04日 11:48
黒ウサギさんへ

スッポンカッポン。
この言葉は母から良く聞きました。

ただ、亀田川には関係無いのです。
数十年前の工業高校の裏一帯は、葦などが生えた湿地帯だったそうです。
入り込むとズブズブとぬかるんでしまい、足を抜くたびにスッポン、カッポンと音がするので本通りや川原町あたりをスッポンカッポンと呼んでいたそうです。

『堰(せき)の開閉時にスッポンカッポンと音がするので…』と言う説に私は一票。

Posted by プー at 2009年02月04日 12:05
ヒューマさんへ

雪が降ったり融けたりと、今年は忙しいですね。
スッポンカッポンは年配の人で函館に住んでいる人なら結構知っている人が多いと思いますから聞いてみると面白いかもしれませんよ。


ショウセイさんへ

スッポンカッポンをネットで調べたら殆どヒットしませんでした。
私がブログをアップして、もう一度調べたら(○―グル)私のブログが一番にヒットしたほどなんです。
その位、ローカルでマイナーな地名?なのでしょうね。


 yuさんへ

まさにその本ですよ。
函館の歴史と箱館戦争関係にゆかりのある人物や場所を調べる為に読んでいました。
一般的には堰の音がスッポンカッポンというからだと思います。
今はもうないので、お年寄りに聞くしかありませんね。


阿頼王さんへ

阿頼王さんも近くの謎を紐解いていたんですか?
そちらは函館と違って歴史が古いので、古墳までありますからね
中国の兵馬俑みたいな物が見つかると日本の古代史も華やか?になるでしょうが、
なかなかそんな大発見には至っていませんね。
前方後円墳って、私見た事無いんです。
今は殆んどただの森状態なのかな?
当時は祭壇なんかもしっかりとあり、荘厳な雰囲気だったのでしょうね。


プーさんへ

農住団地界隈の事でしょう?
私が子供の頃(と言っても中学生)函工の裏はまだ湿地でしたね。
あそこなら足を入れれば“ズッポンガッポン”と長靴から音がしそうです
それが訛ってスッポンカッポンになるのもうなずけます。

所変わって亀田川のスッポンカッポンは、私も水門の音だと思います。
土左衛門の浮かぶ音がスッポンカッポンとはイメージが湧きませんよね。
Posted by 黒ウサギ at 2009年02月04日 16:46
何故かスッポンカッポンを思い出し、検索したら当ブログが出てきました。
柏木町307番地に住んでおりましたから、よく行ったものです。
記憶に残っている昭和25年から30年くらいまで、夏には母に連れられて川遊びに来ておりました。中州でたき火をおこし、暖をとりながら泳ぎました。多数の家族が来て、にぎやかでしたよ。
東京在住45年、函館が懐かしいです。
Posted by 函館生まれ63歳 at 2009年08月24日 08:24
函館生まれ63歳さんへ

ご訪問ありがとうございます。
当時の函館、新川(亀田川)でみなさん遊ばれていたようですね。
私がここに住むようになった時には、生活廃水垂れ流しのただのドブ川です。

スッポンカッポンのお話は、当時を知る方々に興味深く聞いておりました。
今の亀田川は垂れ流しもなくなり、ボラや虹鱒もたまに泳いでいるのを見かけるまでになりましたが、まだまだ泳げる程ではありませんね。
Posted by 黒ウサギ at 2009年08月24日 11:39
スッポンカッポンは幼いころに父が兄や姉と一緒に連れて行ってくれた川です。水が澄んでいてオレンジやブルー色々な小石がとてもきれいでした。そして冷たい川に入ると川は下からすっぽーんときてかっぽーんと流れていきました。とてもとてもきれいな想い出です。         60代



Posted by eri at 2014年06月14日 23:13
eriさんへ

これはこれは古い記事にコメント頂きありがとうございます。
私が函館で生活するようになって、物心ついた時にはすでにドブ川状態でした。
ですから清流だった頃を知っている方は貴重だと思いますね。
その頃は、魚もトンボもいっぱいいたでしょうね。
Posted by 黒ウサギ at 2014年06月15日 00:36
スッポンカッポンの近くで生まれ育った者です。
数年前、スッポンカッポンの言葉が懐かしく検索しましたらこのペ−ジが出てきましたのでそれ以来「お気に入り」に入れてたまに閲覧しておりました。小学校時代は勿論清流で堰があり川(新川)は蛇行しており、水遊びや「八目うなぎ」などを
取って遊んでおりました。この写真の橋(以前は木造)は新川の蛇行を止めて直線にしたら大雨の後急流になり流されてこの鉄橋にしたと思います。私は名前の由来は口図手ですが後者だと記憶してます。余りにも身近過ぎて大人になっても調べなかったですね!もっともっと書きたいことがありますがこの辺で終わり!100mぐらい上流で「ごだっぺ」を釣りに行ってましたよ。
Posted by 浜のじぃさん at 2015年05月12日 12:43
浜のじいさんさんへ

はじめまして 古い記事へのコメントありがとうございます。
この記事のコメント欄の後半は、リアルタイムでスッポンカッポンで遊ばれた方々ですね。
文章からすると、私の幼少期に遊んだ八雲町の遊楽部川と全く同じです。
「ごだっぺ」まで一緒なのが懐かしいです。

私の周りにいたスッポンカッポンを知っている人は、みんな鬼籍に入ってしまいました。
以前書いた「洗濯ばあさん」といい、もうすぐこの言葉も無くなってしまうと思うと寂しいです。
Posted by 黒ウサギ at 2015年05月12日 22:55
黒ウサギさん、早速のコメントありがとうございます。上の写真は現在の「白鳥橋」の場所です。
道新ビルから向かって昔は白鳥橋の右上と左下に
三日月湖が出来上がっててその内ダンプカ−で生ごみ等で埋め立てられました。それまではフナ釣りを楽しんでました。私も道新発行の函館史を持ってましたが移動〜移動で紛失してしまい本当に残念です!函館を離れて50年以上が過ぎましたが幼友達とまだ連絡が取れますのでその際には又投稿します。この「言葉]はもう少し調べがいがあるようです。
Posted by 浜のじぃさん at 2015年05月19日 13:37
浜のじぃさんさんへ

またまたコメントありがとうございます。
昔、三日月湖があったんですか。
う〜ん それは知りませんでした。
というわけで、白鳥橋付近の昔の写真を探してみました。
1948年の米軍撮影の画像でしたが、川が蛇行してるのは確認できました。
残念ながら三日月湖までは特定できませんでした。
今は、こうしてネットで過去の写真を探せるんですから、便利なものだと痛感します。
黒ウサギ掲示板へ航空写真を載せておきました。
http://kurousagi3.bbs.fc2.com/
Posted by 黒ウサギ at 2015年05月19日 20:09
昭和24年生まれのものです。
ふと、スッポンカッポンというのがあったのを思い出して当サイトを見つけました。
昭和30年頃、千代田小学校の隣に火葬場があり、その西側を新川が通ってましたが、その当たりをスッポンカッポンと言っていました。丁度そのころに蛇行改修工事があったのか、私が小学校に上がることろには高い土手ぐらいしか面影がありませんでした。
新川の西側にはガラス工場があり、その北側の当たりだったと思います。
私も、父などから溺死者が出ていたと聞いています。
同じことを思い出す人がいらっしゃるので嬉しい限りです。
Posted by 山本耕一郎 at 2018年01月18日 18:39
山本耕一郎さんへ

はじめまして

古い記事へのコメント、そして貴重な当時のお話ありがとうございます。
このスッポンカッポンの記事は古いんですが、みなさんがリアルタイムでスッポンカッポンをご存知の方ばかりなのが嬉しいです。私がもの心ついてこの地へ来た時は、もうドブ川でしたのでスッポンカッポンの面影はありませんでした。
今の函館市民の大部分は亀田川と呼んでますが、当時の方は新川ですしね。
私も新川派ですけど(笑)

どこそこが火葬場だとか練兵所だったとか色々ありますね。
『洗濯ばあさん』も当時の函館名物?でした。
Posted by 黒ウサギ at 2018年01月19日 00:16
はじめまして。
書き込み要領がわからなくテスト書き込みを
させていただきます。よろしくお願いします。
Posted by hakomae at 2022年03月06日 12:21
hakomaeさんへ

こんにちは かなり古い記事へのコメントありがとうございます。
どうぞどうぞ、分かるまでテストされて結構です。

スッポンカッポンは、あと20年もすれば、洗濯バアサン同様、誰も知らないようになるでしょうね。
Posted by 黒ウサギ at 2022年03月06日 20:32
投稿の仕方が分らず先に投稿テストした者です
こんにちは 白鳥橋ができてから「スッポン。カッポン」と[一本橋]名が忘れ去られ 今ではその名を知る人が居なくなりましたので 長い文章になりますが数回に分け投稿させてもらいます
  No.1「スッポン。カッポン」と[一本橋]
私はは亀田川の消火用堰のあった近くで生まれ 今もこの地に住んでいる90才の老人です
数年前 友人から[一本橋]の付近を「スッポン。カッポン」と云うその意味を問われました 分りませんでした その後、何となく気になりネットで調べていたところこのサイトにたどりつきました
このサイトに「スッポン。カッポン」の語源についてのいろいろな諸説が書かれており おもしろく拝見したところです
[一本橋]とは消火用堰の上に架かっている木製の細い橋のことで門扉(4基?)あり 橋には
開閉する手動式ハンドルがありました 私達はその橋を[一本橋]と呼び水深も深く泳ぎなどして遊んだものです 今でも小さい頃のこの付近の光景をはっきりと記憶に残っております([一本橋]は現在の白鳥橋から70m上流にあり 小さい子供達が遊んだ堰の下流は埋め立てられ現在野球ができる大きな広場になっています)

 No.2に続く
Posted by hakomae at 2022年03月10日 13:41
No.2「ドンゲ」と「イタドリ」

[一本橋]の付近は川がS状に蛇行し橋の上流は土手が高く「ドンゲ」(道南地方の呼名で正式名は多年草のイタドリ)の群生地でした
「ドンゲ」は亀田川全体に生えていましたがS状の個所は土手が高く「ドンげ」は原始林のような密集地帯で これに反しその上流と下流は 土手が低く「ドンゲ」はあまり目立ちませんでした
多分、堰止めし小ダムを造るには蛇行部分の土手が高いこの場所が最も適した地であったとおもいます
「ドンゲ」は日本中に生殖しており その名も地方によりいろいろな呼び方があるようです 「ドングイ」、「イタンポ」「コンパチ」「スッポン」、etc。
広島県、岡山県、その他の県で「イタドリ」のことを「スッポン」または「カッポン」と言うとのことです 箱館の「スッポン。カッポン」の呼び名もここからきているのではと思います
 
  No.3に続く
Posted by hakomae at 2022年03月10日 13:54
No.3「スッポン。カッポン」名の定着地
・・・下記については 私の勝手な推測であり 何ら根拠があるものではないことを 先にお断りしておきます・・・
「スッポン。カッポン」と云う植物名が箱館地方に広がったのは五稜郭築城(幕末)の頃でないかと思っております
当時の箱館は人口も少なく築城にあたっての作業者は本州の方から来た人、新天地を求めて本州から北海道に渡って来た人 このような人が多かったと思います
五稜郭城の堀と亀田川は最短のところで0,5qと近く その間は一面野原であったと思います
築城に従事した本州の人は亀田川を見て 亀田川全体を「スッポン。カッポン」の多い川と言ったに違いありません その後年月が過ぎ川全体を「スッポン。カッポン」の地として定着した名になったではないかと思いますが 
明治という長い時代が過ぎ 大正初期に[一本橋]という建造物ができたことにより「ドンゲ」の最大の群生地である [一本橋] 付近を「ドンゲ」地として集約され この地を「スッポン。カッポン」地帯と呼ぶようになったのではないかと思います
Posted by hakomae at 2022年03月10日 14:03
hakomaeさんへ

お返事遅くなり申し訳ありません。
なにせ、最近は外伝ばかりの更新で、こちらは週に2度程度しか見に来てませんでした。

それにしてもドンゲからのスッポン、カッポン説、なるほどと思いました。
中国地方の方々が、スッポン、カッポンと言ってましたか。

音からスッポンカッポンと言われたというのが有力でありますが、築城時は間違いなく蝦夷地以外の人が作ったわけで、そのイタドリの方言からという説は初耳です。

近年、道央の炭鉱町の炭鉱跡の局地探訪へ出かけてますが、たかだか40数年前の映画『幸せの黄色いハンカチ』に登場していた風景は、今はほとんどありません。
あっても地元有志が残してるという建物が殆どで自然に還ってましたね。
調べると、炭鉱のずり山は自然発火するそうで、そこにサツマイモを入れて置けば焼き芋が出来たそうです。
今行けば、ずり山の形跡もないような、ただの山になってます。

同じようにここスッポンカッポンも全く当時の面影もなく、写真すら殆どありませんね。
文化財や国宝クラスの建物なら、その由来等々学者先生が記録して残すのでしょうが、亀田川のただの水門(堰)付近の呼び名など時間と共に無くなってしまうのでしょうね。
Posted by 黒ウサギ at 2022年03月13日 17:39
黒うさぎさんこんにちは 先に投稿してから 早いもので 10 日たちました また投稿させていただきます                             「スッポン、カッポン」名と「一本橋」の名も後20年(70才後半の人まで)もしたら完全に忘れられるでしょうね
ただ、今でも当時のものとして残っているのは先に書いた白鳥橋を渡ってすぐ横にある広場です 当時の堰の下流です これもいつかは建造物ができ忘れ去られることになるでしょう
 唯一残るのは 白鳥橋の新道から50m上流にある長さ200m程の細い道です   この道が昔「一本橋」を渡る唯一の道で今は白鳥町と田家町の境界線になっています
道の両側は現在住宅地で この道だけは後生に残るのではないかと思います

話が変わりますがこのページでは「スッポン、カッポン」の語源として門扉開閉音派が多いようですね その他の2〜3のHPでも同じで 門の開閉、死体、ぬかるみ、  川に落ちた音の説と書かれています
門の開閉音のことですが開閉時どうして「スッポン、カッポン」と音がするのか不思議なのです
一本橋の門の開閉はスピンドル方式で車の手回しジャッキーと同じ「ねじ」方式です 
開閉速度を急速に上下させることは出来ません また門は門にかかる水圧で堰に密着してます どうして「スッポン、カッポン」と音がでるのでしょうね ???
不思議に思うのは私だけかな ・・・
Posted by hakomae at 2022年03月19日 20:58
hakomaeさんへ

またまたお返事遅くなりました。
19日に打ったワクチン3回目接種の後遺症でボケーッとしてました(笑)

>唯一残るのは 白鳥橋の新道から50m上流にある長さ200m程の細い道です 
なるほど、この道が当時の道ですか。
確かにこの道がしばらくどうこうされる予定はなさそうですから後世に残ってて欲しいです。

亀田川も中の橋から新川というのも当時は高砂通りが亀田川だっだそうで、そのまま函館港に流れてたらしいですね。
そして土方歳三らが通った当時の道が、中の橋食堂からサツドラ大繩店の裏を通って国道5号線ネッツトヨタというか富国興産のGSまでの道だったと聞いてます。
ここらへんは函館戦争当時の記録なのでいっぱい文献が残ってますね。

それに引き換えスッポンカッポンは、どうって事のない?当時の水門の俗称なので、なかなか記録には残ってないのが面白いところです(笑)

ちなみにドンゲ≒スッポン・カッポンになるほどと思った私ですがね。
私は田舎の出身なので、田んぼの水門の開閉音を何度も聞いてます。
普通はバルブを回すと普通に水門が開くだけなので水流の音がスッポンカッポンとは鳴りません。
が、水門が泥等で詰まったというか水門がネッパッてる時には、水門の開閉バルブを何度か上げたり下げたりして泥を流すんですよね。
その時にボコッとかカポッって音が出ます。
なのでその音なんだと最初は思ってました。
素直に水門が開けば良いんですが、しばらく閉じた水門を開けた時の音ってイメージです。
Posted by 黒ウサギ at 2022年03月21日 20:03
 黒うさぎこんにちは半年ぶりですね
[スッポン.カッポン]と云われている一本橋(消火用堰)地区の中で堰の上流の蛇行部についての記述が全く見当たらない それ故、私が80年前に見た堰上流の蛇行部の光景について書き残しておきたく記することにしました
私が20才頃 数年函を離れていた頃 初めて会う友達からは必ず出身地を問われます
私はなんのためらいもなく函の[スッポン.カッポン]と云う所で先人達が伝えてきた不思議な地域名だと話したものです
私の祖母は娘時代に一本橋(消火用堰)が造られた時代を過ごしてきた人で 私が
子供の頃[一本橋]に遊びに行くと云うと[スッポン.カッポン]に行くの と聞き直します   が[一本橋]に行くのと問うことはなかった 今思うと祖母ににとっては[スッポン.カッポン]は子供の頃から身についた名であったのかと思う
 一本橋の下流は憩いの場所としてよく知られていますが その上流の蛇行部のことについて知る人は殆ど居ない 地元の人でも知る人は少ない 
私は先に一本橋に行く唯一の細い道と書いた この道は旧赤川通りから一本橋に通じる
200mの道であるが150m付近から人工的に造られた下り坂になっておりその下端に一本橋があった 
川の流れは田家橋と白鳥橋の中頃から直角に近い曲がりで北上し旧赤川通りの 50m付近でUターンし南下している 旧赤川通側の土地は一本橋の土手の高さより相当高く それ故赤川通側に近いUターン部は深い谷ように感じたものである
 私が子どもの頃 一本橋に通じる200mの道の中間に2軒の家があった この家の横から川に降りる人に知られない階段があり洗い物をする踊り場があった 当時まだ水道がなかった時代である 位置的には丁度川の流れがUターンし終わって南下する個所であったように思う この場所は私が子供の頃 はじめて泳ぎをおぼいた思いでの場所でもあった 川幅は狭く両側は[いたどり]に覆われた谷間で 空をみると見える空の視野は30度ぐらい 薄暗く気持ち悪かった思い出がある
亀田川は庄司山付近を源流として大森浜にいたる川であるが その中でも[スッポン.カッポン]地域の蛇行部は[いたどり]が密集して人を寄せ付けない小さな[渓谷であり] [谷であり] [秘境である]唯一の人に知られざる特異な場所であつたように思う
Posted by hakomae at 2022年07月16日 21:12
hakomaeさんへ

こんにちは スッポンカッポンの生き証人のお言葉ありがとうございます。
今ではその面影もないような場所となりましたが、このコメントから当時の様子が伺い知れました。
イタドリが繁茂して空が30度程度しか見えないというのは良く分かります。
私の田舎の川でも夏はよく泳ぎましたが、本流より支流の方が魚が多くていつも支流で泳いでました。
川幅、当時は10mもあろうかと思ってましたが、大人になってその川を見ると僅か5m程度の川幅でイタドリだらけで、まさにhakomaeの見た風景に近いかも知れませんね。
今は当時の航空写真もネットで見られますから、時間のある時にじっくり調べてみようと思います。
ちなみに航空写真も見てますが、当時の写真は鮮明なのがないんですよね。
Posted by 黒ウサギ at 2022年07月16日 22:05
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