
HPにアップしたが、先日『インジエア』という、北海道産業遺産・戦跡・廃墟を探訪し紹介しているHPの管理人「のんさん」という方から、森町の大盛鉱山界隈の林道状況についての問い合わせメールがありました。

分かる範囲でお話ししたが、私も30年前に鳥崎川源流探検時、上大滝付近の林道(枝道)でコンクリート製の遺構らしき物を見た記憶があります。

付近に大盛金山(鉱山)があり、数百、数千人の人が住み、一つの街を作っていた事は聞いていたが、あまり興味もなかったし、源流探検がメインだったから今回の問い合わせがなければ一生気にすることはなかったでしょう。

結局、簡単に考えて行った事もあり、捜してみたが本気モードではなかったようでスカに終わってしまった。

こうなると鉱山跡を見てみたくなるのが私の性格です。

情報を集めて、この目で見てみようと思ったのでした。
廃墟、廃道、実は結構好きです。
釣りで山奥に入ると偶に廃墟になった建物に
遭遇します。
離農した廃屋は何だか残された様々なものに
色んな情念が染み付いているようで
胸が締め付けられるような、切ない気持ちに
なります。
もう、12年くらい前でしょうか。
赤井川か宿野辺川の林道脇で比較的新しい
廃ホテルに出くわしました。
昨日廃業しました、って感じの凄く綺麗な
建物です。
釣りをしていると急に天候が悪化して
雷雨と強風に見舞われて、いけないとは
判っていてもどうにもならずに、そっと
びしょぬれになりながらそのホテルに
逃げ込んだ事がありました。
ロビーの綺麗なじゅうたんを汚すのも
はばかられて、私はウエイダーを脱いで
しばしその家屋の中でまどろみました。
外では雷鳴。雨、ダウンバーストのような
強風。
うとうとしながら
『あぁ、きっとここで
沢山の人が旅に来て、夫々の時間を
過ごしたんだなぁ』としみじみ思ったのもです。
数千人が暮らしていた町。
もしその場に立つ事ができたなら、胸が
一杯になってしまうでしょうねぇ。
それでは、又。
大盛鉱山、私もずっと気になっていたのですが、見つけられていません。学生時代に一度うろうろしてみましたが、そう簡単にはいきませんでした。
私もインジエアののんさんに大盛鉱山について尋ねられ、自分の知っていることはお伝えしたのですが、のんさんも見つけられなかったとのこと。
森町の図書館にあった「森町の歴史散歩」という本に大きな遺構の写真と共に上大滝近くにあるというような文面があるので、簡単に見つかるかと思いきやなかなか難しいですね。
森町の方に、昔上大滝の上流にある砂防ダムの奥に集落があったのですが、閉山後に人が減ってしまったけどしばらくは住んでいたというお話も聞いたことがあります。
たいしていい情報がなくてお力になれず申し訳ありません・・・。
でも黒ウサギさんならきっと!
凄いですねえ。
ロマンを感じます。
続きが楽しみです。
私は、廃墟マニアではありあせんが
廃墟には癒しがあると言われた事がありました。
確かに、いわれが悪い場所は別として
廃墟や遺構を目にした時、往時を思う時は
なんだか悪い気分にはなりませんね。
大盛鉱山跡探訪は続くと思います(笑)
大盛鉱山を検索してもねりこさんのHPぐらいしかヒットしませんでした。
かってにリンクしてしまい申し訳ありません。
上大滝奥には大きな砂防ダムが、確か?2個あったはずです。
昔、釣りに来てたので記憶がありました。
あの界隈も、遺構らしき物は無かったような気がしますが、再訪してみるつもりです。
林道沿いも、分岐すべては見てない所もありますしね。
いつもの林道探訪より人里に近いから楽そうなんですけど・・・
この界隈はプーさんの巣窟みたいな所で地味に怖かったりします。
次回のご報告をお楽しみに(笑)
ネットでは地質図幅「濁川」の報告書が読め、大盛鉱山は七曲沢と書かれていますね。地質図を見てみたところ、HP「黒ウサギ的こころ」に載せられている黒ウサギさんのコメント入り地形図の書き込み「←ゲート」の「ゲ」の文字の下にある沢(左二股川と中二股川のほぼ中間にあり、南東方向から流下している沢)を遡ったところに「金・銀」表示がありました。
北緯42度1分56.9秒
東経140度29分41.3秒
写真「ゲートから1km地点林道左側に何やらコンクリート製の物」は鉱山に由来する構造物ではないでしょうか?
開戦前は軍需物資を輸入するため金鉱山の開発が国を挙げて奨励されましたが、開戦すると輸入相手国は敵国または占領地ですから金は必要性がなくなり、金鉱山は整理(閉山)され、金鉱山の人と生産設備は、軍需物資の炭鉱、水銀鉱山、軍需産業へ移動させられました。
これからも楽しいHP、読ませてください。
はじめまして コメントありがとうございます。
なるほど『ゲ』の沢でしたか。
緯度経度の表示助かります。
林道から約1kmほど遡れば到着出来ますね。
それと、地形図を見ると鉱床は、沢伝いの狭い場所みたいですから精錬所跡は別な場所にあるはずですね。
やはり付近一帯をきちんと探さないとダメみたいです。
ゲートから1km地点林道左側に何やらコンクリート製の物が鉱山関連の物なら良いんですが・・・
何はともあれ、再訪しなければいけないでしょうね。
興味深く読ませて頂いております。
小学校3〜5年生までの期間を森小学校で過ごしましたので、最近になって知った大盛鉱山の史実には驚かされております。最近現地には2度程行きましたが、車で行ける範囲のみのなまけもので終わっております。
1948/05/22の米軍撮影のUSA-M1078-32によりますと、上大滝付近から山中を真南方向に大掛かりな伐採の痕跡があるように思えますが、索道ではないでしょうか。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M1078&photono=32
つい先日、「森町史」と言う本を図書館にて閲覧した所、「0.5トンの索道バケットを1トンに交換し」と言う文面や、第二製錬所や、霞台小学校の運動会の写真なども掲載されておりました。この伐採エリアの延長に坑道区があったのではないかと勝手に推測致しております。
規模的には2000を超す住民が暮らしていた事を考えますと、かなり広範囲のエリアにあったように思われます。
昭和17年と言いますと、ほんの70年前の事ですが、人が地球と言う美しい星から一瞬の私利のために多くの資源を不当に搾取し、さらには、これらの行為が不当な労働力に依存しなければ成り立たなかったビジネスであったことを知ると、答えの遥か遠い感慨に引き込まれるものです。おそらくこれは、今日のあらゆる産業に共通した、過程と結果の痕跡であるかのように感じずにはいられなくなるのでしょう。
この世代の人の営みの共通した痛みが、全く新たな道の模索に私たちを駆り立てます。
こういう意味に於いて、この類いのアドベンチャーは実にエキサイティングです。
共に、再び来る雪解けと、励みのある明日とを楽しみに致しております。
much Love,
S.M.
ご訪問ありがとうございます。
子供の頃(40年以上前)八雲町鉛川鉱山の応時を目にしてました。
数百人規模の鉱山でさえ、人々が生活するに必要な色々な施設がありましたが、今は殆ど何も残ってません。
そして数年前、鉛川鉱山へ行きましたが、当時の事を思うと感慨深いものがありました。
約70年前の大盛鉱山だとコンクリート製の物以外なにも無いと思ってますが、出来れば何かを発見して当時に思いをはせたいと思ってます。
まあ、この鉱山の存在を思い出させてくれた『インジエア』の「のんさん」のおかげです。
出来たら「のんさん」共々来春に訪問したいと思ってます。
それまで今しばらくお待ちください。
私の森小2年生は、昭和41年でしたが、秋の遠足は決まって鳥崎八景でした。低学年は鳥地獄まで、中学年は?、高学年は?、と言うように距離別のランクがあったように記憶しておりますが、上大滝より上流は誰も行っていないでしょう。鉱山の情報は学校としても何も教えて居なかった事からも、当時としても可能な限り抹消させたい負の情報だったのかも知れません。広辞苑のように分厚い昭和55年発行の「森町史」の中にも掲載された記事はほんのわずかにすぎません。
ですからこそ、このようなアドベンチャーが、なぜか大きな時代の流れのパワーに逆行しているようで実にエキサイティングです。
来春は、是非とも私をもお誘い願いたいところです。
雪解けが実に楽しみですね。
much Love,
S.M.
PS. 借りた本を図書館に返却する前に必要箇所をコピー致しましたので、リンクをご紹介させて頂きます。
「森町史」(昭和55年発行)の中の第二製錬所と霞台尋常高等小学校の写真のコピーです。
https://www.dropbox.com/s/lsxxynwbkc5t3ht/Taisei-Pics.pdf
「森町史」(昭和55年発行)の中のページコピーです。
https://www.dropbox.com/s/74t49htojlpzowa/Taisei%20mori-choushi.pdf
「北海道の金属鉱業」(1952)の中のページのコピーです。
https://www.dropbox.com/s/wim54luaewjgrvf/Taisei%20Mine.pdf