
写真は橋の上から撮っているんですが、当時はこんな立派な橋はありませんでした。
写真左側から橋の下を流れているのが鉛川で、右手が本流の遊楽部川。
この先には古い今は殆んど使われていない橋があるんです。
もう数十年も前の事で、時効成立してますから書いちゃいましょう。
秋にはその橋の欄干の上に子供の頭大の石を沢山並べて、下の鮭めがけ、その石を一気に落とします。
いたって原始的ではありますが、結構確実な漁法?で欄干の石をすべて落とすと一匹はピクピク状態にする事ができました。
その鮭は橋の下で待機している友達が捕獲します。
贅沢にもオスだとハズレでそのまま捨ててしまい、メスのイクラだけを頂戴し友達と山分けしました。
子供の頃の遊び場は、この遊楽部川が半分を占めていたような気がしますね〜
釣りして良し、泳いで良し、エビやカニも獲れました。
楽しい思い出ばかりが甦ってきます・・・んっ
もう一つ思い出がありました。
早春に真夏まで待ちきれず、友達と流木を組んでイカダを作り、川下りをしたんです。
みんなで(確か4人)そのイカダに乗って、川を下ったわけですが、子供の力で流木を縛った荒縄が川の流れに耐えられるはずもなく、数分で分解し全員川の中に投げ出されてしまいました。
無事に川岸へたどり着きましたが、すっかりお腹を冷やしちゃって、
川下りのはずが腹下りになったっけ。
人気blogランキングへ
私は旧大野町で育ちましたので、遊びは直ぐ裏の大野川でした。
似たようなこともしていました。秋になると遡上するサケを狙って、年上の者が川縁から長いヤスを投げ、外れて流れてくるヤスを川下で拾って届けたりしました。上手く捕れると切り身をもらったりしましたが、その当時から密漁だったようです。密漁と言えば、川のそばの畑のトマトはいつも我々のおやつでした・・・。
あと、川遊びは、5年生ぐらいまでは、男も女もスッポンポンでした。それ以上になると、男は日本手ぬぐいのふんどし・・・。女の子は・・・?
台風の後の異常な暑さに、増水するのを知らずに友達と二人で川へ遊びに行って、中州に残され、命からがら岸に渡り着いたこともありました。そのときに友達が新しく買った1本の鉛筆を川に流してしまい、叱られるので家に帰れない・・・と泣いたことが、助かったことより強い印象として残っています。今の子どもでは考えられない話ですが、みんな貧しかったけどいい時代でした。
長くなりました・・・スミマセン!
昔は今程うるさくなかったので、みんな鮭を獲ってたんですね。
八雲町内に引っ越してからは、5号線沿いにある鉄橋の上から川に飛び込まないと友達にしてもらえないという『儀式』があって、そりゃもう怖かったです。
函館に来てからは来てからで、当時はまだ存在していた穴間のつり橋の上から飛び込むという『儀式』もありましたが、八雲時代から見れば容易いものだったのを覚えています。
それにしても鉛筆一本で叱られるのが怖くて家に帰れないなんて、
本当に今では考えられません。
切ないけど考えさせられるお話ですね。