
ここから約1km走ればゲートがあって行き止まり。
そこからは横津岳山頂レーダーの関係者のみしか入ることが出来ません。
登山者や遊山者は、その少し手前の駐車場へ車を停め、徒歩で行くことになります。

ゲートが見えてきました。
この先のことは、私の第一回目のブログにほんの少し書いてありますので、興味があればこちらからどうぞ。
ゲート手前の駐車場へ戻りましょう。


ここには、『ばんだい号慰霊碑』と書かれた看板があります。
『ばんだい号墜落事故』とは、
昭和46年7月3日、午後6時10分頃、東亜国内航空(現在は日本航空)の札幌丘珠空港発、函館空港行きの「ばんだい号」YS−11が運行乗務員2名、客室乗務員2名、乗客64名を乗せたまま、ここ横津岳に激突しました。
そして乗務員などを含む68名全員が死亡する最悪の事故となったのです。

ばんだい号慰霊碑へは、看板の示す矢印の通り、駐車場から反対方向へ林道が延びています。

かなりガレた登りで、登り終われば左手に横津岳スキー場のリフトが見えてきます。

そして、その先に慰霊碑があるのですが、写真には撮りません。

見たい方は検索して探して見て下さいね。
ここからは、今から30年近く前のお話。

当時、私はハスラー250というこんなバイクに乗っていました。
ある日、いつもつるんで走っていたバイク仲間、友人Sに「夜の横津に登ってみないか?」と誘われて登ったのが始まりだった。
当時のハスラーのヘッドライトは6V25Wしかなく、いわゆる「あんどんライト」でしたから、夜間走行は大の苦手。
登山道を走れば、目の前が少し明るいというだけで、周りは真っ暗闇・・・それでも道から時々見える函館の夜景は素晴らしく綺麗なのが僅かな救い?路面が良く見えないため、景色をマッタリと見る余裕はありません。
そんな苦労をしながら、友人Sと駐車場へ到着。
夜の山は静寂そのものでした。あまりに静か過ぎて、なぜか耳鳴りがしたのを覚えています。
友人S「この先にスキー場のリフトがあるから、そっち行って見るべ」との誘いに乗りリフト乗り場へ。
夜の誰もいないリフトで少し遊んだ後・・・
私、「あっちに見える塔、何よ?」
友人S「ばんだい号の慰霊碑だべ」
そしてどちらからともなく、そのままばんだい号慰霊碑へ行ったのです。
私「夜にこんな場所ヤバくないかい」
友人S「ヤバイな!戻るべ・・・」
そんな感じで、その日は下山しました。
あくる日、友人Sが「今晩、また行ってみないか?」との誘いがあり、その誘いに乗ってばんだい号慰霊碑へ行った。
暗いし、怖いし、寂しい場所なのに拒否できませんでした。
横津岳という山自体の魅力なのか・・・それとも・・・
二回目も同じように、ばんだい号慰霊碑まで行き、友人Sとしばらく休んで帰るだけ・・・
そして・・・なぜか、次の日も・・・次の日も・・・次の日も・・・
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猛暑が続く昨今、涼しくさせてくれてありがとう!(笑)
前の記事で、バイアルスでウィリーをしている写真を拝見しましたが、ハスラーにも乗っていたんですか?今になれば、どちらもお宝モン!
このハスラーは何型かな?
ばんだい号…出てきましたね。この先のお話、ワクワクしますね。
『お約束』通りの展開を期待しています。
多分、ばんだい号が墜落した数年後だったと思います。
木が、なぎ倒された風景は何となく覚えてます。
それで慰霊碑を検索していたら、函館の色んな心霊スポットが出てきて、ゾクゾクしてしまいました。
高校の頃、よく肝試しに行った「赤墓」の話しもたくさん書いてありました。
また、行ってみたいような、行きたくないような・・・
今度は赤墓も取材してきてください!!
でも墓の文字は読まないように・・・・・・
怖い話にしては、霊が見えたとかの実態がありません。
それでも横津岳へ通い続けた謎は今でも解き明かされておりません。
これはハスラーの最終型で、80・81年に生産されました。
世の流れは4ストオフロードとなって来ていましたから不人気車になりますかね。
当時、このバイクは走行距離1000kmぐらい18万円で買ったはずです。
とうとう書き始めました。
現場へは、夜に写真を撮りに(ペルセウス流星群を見るついで)行こうかとも思いましたが、日中にしましたね。横津岳の道は通い続けただけに、今でも体に染み付いています。
はい、当時はまだ、木がなぎ倒されていて生々しい状況でしたね。
ばんだい号事故は飛行機に乗っていていきなり死んじゃうわけですから、
亡くなった方の無念とかがヒシヒシと伝わって来ました。
ところで、当時函館心霊スポットなるものは殆んど行きました。
赤墓も友人Sと何度か行きましたよ。
そして一番ヤバイのが碧血碑です。
ここへは意味無く行ってはいけません。
暑い中、仕事で文章を打ち続けてるので、自宅で打つのが辛いんですよ〜