そしたら、いい写真を発見。
先日の『函館バス転回場の謎』の場所が製網工場跡だとのコメントがありました。
その裏付けの写真がこれで、高龍寺から穴間方向を望む景色です。

(撮影 昭和30年)
正面のお店屋さんから右に下がると外人墓地、そして左に上った先に煙突がある。
ここが当時の日魯漁業(現在潟}ルハニチロホールディングス)の製網工場の煙突だそうです。

現在の写真はこれ。
位置関係として間違いなく函館バス転回場は製網工場でしょう。
それはそうと、坂の突き当たりのお店は当時『三角屋』といったそうです。

よく見ると、今でも三角屋と看板に書かれていた。

53年後の現在もある三角屋さん。
なんだかホッとしてしまいました。
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旧函館シリーズ。昔の函館の方が“風情”がありますね。時間帯もあるのでしょうけど、半世紀以上も続いている老舗の「三角屋」さん。看板に「バター・キャラメル」の文字が、それに、店の前に止まっているのは、昔懐かしい、三輪トラック! 昭和30年と言えば、日本は敗戦後、高度経済成長に向かって行く頃ですね。ニチロの工場の煙突にさえそんな思いが感じられます。
この界隈は外人墓地や去年のネタの『お墓の中の喫茶店』があります。
今は寂れていますが、当時は繁華街に近く沢山の人が写っていますね。
この頃の函館は北洋漁業真っ盛りの頃で、かなりの好景気だったみたいです。
「嫁にやるなら日魯の社員」と言われていたほどでした。
私が日魯漁業を退職した社員の方に話を聞いた事がありましたが、
ボーナスは15ヶ月とか30ヶ月分とかで、更に景気の良い時にはもっともらっていたようですよ。ただ、なにせ船乗りなので「宵越しの金は持たない?」感じで、道路を渡るのにもタクシーを使ったとかの逸話が多々あったようです。
昔の写真を見るとオート三輪のミゼット等が写っていて、
自動車を見ただけで時代が分かりますね。
ちょうど三角道路の角にあったから、
三角屋といったのですかね。
素人の僕がみても30年代の賑わいが
よくわかる写真です。
この頃はみんな羽振りがよかったのでしょうね。
港町ならではの写真に癒されました。
この頃は北洋漁業が盛んな頃でしたから、今のように観光都市函館ではなく、
北洋漁業基地としての函館だったでしょうね。
昭和30年代の写真は日本が復興する力強さを感じますね。
この写真からは物凄い活気を感じます!
戦後の日魯漁業は衰退期へ向って行くのですが、
この頃はまだまだ活気があったようです。
昔の函館の画像シリーズはしばらく続くはずです。
なにせ、休みが雨になって何所へも出かけられず
昔の函館を調べる時間が沢山あったものですから。